【コロナ戦争】戦争中、人は死ぬ、ビジネスも死ぬ、エンターテイメントも死ぬ、しかし永遠には続かない【戦後は必ず来る】
人と人が殺し合う戦争と違って、今回のコロナ騒動も戦争状態なんだけど、敵が見えないし、もしかしたら死ぬかもしれないけど、爆撃に合うとか、ミサイルで街が吹っ飛ぶとかの恐怖とは違うので非日常生活を受け入れることができないのだと思います。まだどこかで大丈夫なんじゃないかっていう希望というか切実な願いでしょうか。
イヤー、勉強が捗りますねぇ、大好きなスポーツ中継がないので誘惑もないし、ユーチューブでもそんなにコンテンツがバンバン上がってこないので、もう新しいスキルを習得するには絶好の機会ではないでしょうか?あっ自分だけ家にいて勉強とか惨めだなぁ、なんて感じなくても皆んな自宅待機なんで羨ましがる要素もないし。
皆さんはどんなスキル習得をしてますか?私は動画編集のためのスキル「Adobe Premiere Pro」とアニメーション動画制作のためのスキル「VYOND」に多くの時間を費やしました。後はブログを更新したり、PDF教材の下書きを書いたり、フリーランスから将来的には法人化する予定のホームページなどをアップデートしています。
今はコロナ戦争という戦時下
日本とアメリカではどうも温度差がまだまだ違うのを感じます。まだどこかで自分は大丈夫、と思って外出をする人とか、非日常生活を受け入れられない人が多いのではないでしょうか。中途半端な雰囲気に流されたまま、ズルズルとコロナ混乱を引きずっていきそうな日本社会。アメリカは強制が入りましたが、今では解除しろとデモですから。
人と人が殺し合う戦争と違って、今回のコロナ騒動も戦争状態なんだけど、敵が見えないし、もしかしたら死ぬかもしれないけど、爆撃に合うとか、ミサイルで街が吹っ飛ぶとかの恐怖とは違うので非日常生活を受け入れることができないのだと思います。まだどこかで大丈夫なんじゃないかっていう希望というか切実な願いでしょうか。
国同士の戦争とか世界大戦のようなものだったら、非日常なんで人は死ぬし、ビジネスも営業できないし、スポーツもエンターテイメントも死にます。普段の生活、通勤とか学校生活も死にます。こういうことだったら、生き延びるのに一生懸命で非日常を選ぶというか選択肢が他にないので受け入れることができます。
ここで戸惑っているんじゃないでしょうか。自宅待機で経済がストップというのは多くの人にとって初めての経験。戦争だったら軍需産業とかは忙しいだろうし、食糧支援とかの活動もあるから人々の行動制限はそこまでないですけど、今は全てがストップですから、で先が見えない。人相手ではなく、ウイルスですからまった厄介ですし。
やはりワクチンが開発されて、多くの人々に行き渡り、マジョリティーが安心感を共有できるまでこの自宅待機は続いていくでしょう。だからと言って、アフターコロナ社会がドラスティックに変わってしまう、ということでもないと思うです。「BEACH」産業はもうお終いだとかいう議論もちょっと待って、という感じなんです、私の中では。
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新ノーマル社会
「BEACH」は何の略かと言ったら「B」が「Booking」、「E」が「Entertainment」、「A」が「Airline」、「C」が「Casino」、「H」が「Hotel」という具合。この周りの関係産業、業界も勿論アウトなんですけど、アウターコロナ社会で完全になくなるというのは違うのではないかと思うんです。テクノロジーを利用して再び戻ってくるのではないか。
気心の知れた仲間や友達と食事を楽しむ、知らない土地への旅行、非日常感を味わえるエンターテイメント。楽しいですよね、このような活動。だからそう簡単にはこれまでの文化というか娯楽、生活スタイルを捨てないと思うんです。 飲食も旅行業界もエンターテイメントも戻ってくる、だって楽しいでしょ!これに尽きると思うんです。
勿論、ウィズコロナ社会ですからそれなりにテクノロジーを取り入れて、社会を運営していくんですけど、もう2度とコロナ前の社会には戻りはしない、というのを皆んな受け入れることができるのでしょうか。受け入れるとかどうかの問題ではなくて、受け入れるしか選択肢がない、という状況になるのでしょうか。
大歓声の中のスポーツ、迫力あるし、あの大衆が醸し出す臨場感の空気を捨てることできます?大好きなアーティストのコンサートとかも人と人の間にある程度の距離を保って、というのはデフォルトになるのでしょうか。イヤー、魅力ないですよねぇ。人と人が出会うってそれだけでエネルギーが生まれるし、喜びだと思うんですけど。
今はこのコロナ騒動が収まるまで、多くの業種で倒産が相次ぐのは避けられないと思いますけど、戦後は必ず来ると思うんです。破壊された文明社会をそう簡単に人類は諦めるでしょうか。復活をさせるという気運は世界中で高まるはずです。キーポイントはテクノロジーを今まで以上に利用した社会秩序の仕組みを取り入れること。
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人体にテクノロジーを組み込む
そのためにはもしかしたら人体にテクノロジーを埋め込むことが必要になってくるかも知れません。スマートウォッチがそのような健康状態を識別できるシステムとか。 相互の信頼をお互いが得るには、私はウイルス抗体を持っているので安心してください、という確認を社会の至る所で認識できるシステムが絶対に必要です。
または既に北欧の地域で始まっている極小のチップを手の甲に差し込む、というシステム。これらのテクノロジーが、その個人の健康状態、安全性を把握、発信できるシステムを社会の至る所で構築できれば、コロナ前の社会を取り戻せると思うのですがいかがでしょう。遠隔授業とか遠隔医療とかは推奨されますけど、他は・・・
無駄な会議や出張はなくなる、社会の中で今まで無駄、と思われていたものはコストの面から言って復活はしない。効率化がビジネス面では加速する気がします。エンターテイメント、スポーツは5Gになって遠隔で視聴するものになるのでしょうか。スポーツとかエンターテイメントはライブ鑑賞で味わえる一体感は何とも言えないものがありますから。
悲観することはない、今は先が見えないだけ
今の期間はやっぱり自己投資、こんな機会ないですから。遊びに行きたい誘惑が全て断ち切られている状態。絶対、新しいスキルを習得するのにもってこいの期間です。ですから消えてなくなるものもあるでしょうが、また再び楽しい日常生活が訪れる日が必ずくると私は確信しています。あそこへ行ってみようぜ、という欲求は抑えられない人類(私)です。
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国同士の戦争とか世界大戦のようなものだったら、非日常なんで人は死ぬし、ビジネスも営業できないし、スポーツもエンターテイメントも死にます。普段の生活、通勤とか学校生活も死にます。こういうことだったら、生き延びるのに一生懸命で非日常を選ぶというか選択肢が他にないので受け入れることができます。
英語プラス@の時代。インテリジェンスな情報を英語でキャッチ。日本語に翻訳されるまで待つのはやめましょう。できるあなたへ、 Knowledge is Power. このパワーの意味するところは何であろうか? それは思うに『異なる環境へ適用する能力』だと思います。
例を挙げるなら、簡単な海外への小旅行から不確定未来のさまざまな社会への対応能力など、それ相応の知識を持っているのといないのとでは、その人の人生の過程において得るであろう結果は、まったく違ったものになります。
当たり前のことですが成人してからの個人はすべて自己責任です。育ってきた環境への不満は、成人してからの人生ではすべて自分次第でどうにでもなります。今の自分の生活環境を嘆く前に自分は努力してきただろうか、問いただしてみるといい!
小旅行の場合。英語で言う Please, Execuse Me, Thank You はなるべくその行く国々の言葉で話したほうが無難である、と言われます。その他に簡単な挨拶から10ぐらいまでの数字の言い方。その国のお金の単位や、その渡航時期の気候など、常識と思われるある程度の情報はその旅行自体を楽しんだり、その個人を守る上で必須。
新しく違う環境での生活を始めるとなった場合はどうでしょう?例えば住み慣れた日本の環境から、経験のない海外での生活となると、情報収集の意味がその行く国々についての知識の習得と言うニュアンスに変わってきます。その国の言葉から文化や生活スタイルに至るまで、勉強するべき範囲は広がるのです。
そして最後にこれから益々社会の変化のスピードが早まる中、どのような社会になっても自分を有利に導くことができるかどうかは、その人の知性に関わってきます。基礎となる知識がなくては、知性というもう一つの意味に近づくことができません。
まず何かを知ることからはじめたらどうでしょうか?無知は無恥につながるが何も知らない自分を知ることのほうが、何かを学ぼうとするためのきっかけになると思います。そのほうが知らないでずっと行ってしまうよりはまし。
自分に何が必要かを知った個人にとって、勉強という言葉は無意味に。サバイバル、といったニュアンスのほうが近いのでしょうか。自分の未来を信じることができるのならば、明日への新しい自分に出会うために今日、努力すべき。やるべきことはたくさんあります!!大前研一氏も言っています、
「自分に投資する!!自分に投資して付加価値を高め、どんな状況になっても生きていけるだけのスキルを身につける。その時の必要条件は知的に怠惰でないということ。知りたいと思ったことは調べ、経験したいと思ったことは経験し、行ってみたいと思った所には行かなければならない。」、と。