【パンデミック】あなたが選ぶ選択肢、社会的責任とは【世代間争い】
高い社会保険料や希望のない年金を払うことで多くの高齢者が生存することは好ましいことでしょうか。自分の生活状態は貧困から抜け出すことが困難だとしている人は矛盾を感じているのではないでしょうか。ここで一人ひとりの価値観が出てくるわけです。自分はどのような選択肢、社会的責任を果たしていくのか?
今のコロナウィルスが起こしている社会混乱をあなたはどのように捉えていますか?自分は若くて健康だから大丈夫。自粛要請が出ていても食糧の買い出しに出てみるといつもの社会と変わらない風景。コロナウィルス恐怖によってなんかゾンビが彷徨っている様を想像したけどいつもと一緒じゃん、大丈夫じゃない!出歩い立って。
これは今日、久しぶりに食糧買い出しのため、外へ出たときの私の感想です。でももし自分が高齢者でなんらかの疾患を抱えて生きているとしたら不安でしょう。そして健康だからと言って体内にコロナウィルスを取り込んでも致命傷にはならない健常者の無責任者に苛立ちを覚えるはずです。ウロチョロするんじゃない、ウィルスをばらまくんじゃない、と。
医療者はどうでしょう。今はなんとか社会が自粛要請でウィルスが爆発的に蔓延することを抑えているけど、もし最悪の結果に到達してしまった時にはどうしよう、と。病院や隔離施設では患者を治療するためのベッドや設備が間に合わず、患者数に対応できない。するとどの人は助けて、どの人は助けることができるのに・・・死んでいってしまうという状況を受け入れる事態が発生する。
で、再び私に戻って、そういうことか、と。これは一社会人として責任ある行動を取らなければいけないなぁと思うわけです。でもいつまで続くのかわからないから不安です。こんな状況に出会うのは初めて。でも今は家にいてじっくりと今後の生活を考えるには良い機会だということで、自分なりに考えてみました。
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夏以降の社会はどうなっているのであろうか
コロナショックが治っても今まで通りの生活習慣、もう再び戻ってこないと考えた方が良さそうです。そんなことは絶対に起こらないと決めかかっているあなた、その内に淘汰されます。今更新しいスキルを身につけるために勉強するのは面倒だ、と言っているあなた、その内淘汰されます。現状維持を望んで思考停止状態のあなたも淘汰されます。
サバイバル、変化に適応していこうという覚悟ができているならば、自分を知的武装するのに今の社会は便利すぎます。欲しい情報は探せば簡単にネット上にあり、それを取り入れることも昔に比べればホント容易になりました。後はやるかやらないか。負ければ惨めな自分が待っているだけ。怖いですよねぇ、私も怖いです。でも不安ならば私は前に進む方を選びます。例えその一歩が小さいものでも、ありったけの勇気と覚悟を従えて!
以下はフィクションですけど、人類が経験しそうな”まさか”の一部分かもしれません!でも金銭的に余裕のある人は速攻取り入れるかも・・・ 世界は大勢の弱者に救いの手を差し伸べてくれるのでしょうか? 医療は病気を治すために活用される方向性から、健常者をアップグレードするために利用される方向へと変わっていくはずです。
世界は大勢の弱者に救いの手を差し伸べてくれるのでしょうか? 医療は病気を治すために活用される方向性から、健常者をアップグレードするために利用される方向へと変わっていくはずです。
未知のウィルスが発生しても万能ワクチンを体内に摂取している人はすぐにアップグレードをダウンロードして体内に取り込んでいただければ大丈夫です、という社会を想像できますか? 万能ワクチンは毎月サブスクリプションでオプションを選べます、と。一番安いのは自分で薬局へ出向き、購入、体内に取り込むというもの。
2番目に安いのがアップグレードの度にダウンロードするかしないか自分で判断するもの。3番目が自動的にアップグレードしてくれて、随時モニターもしてくれるというもの。一番高いオプションは専門医といつでもつながっているというもの。これらの万能ワクチンを手に入れることができない経済的弱者はどうなると思いますか?
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民主主義、ヒューマニズムは今後も健在だろうか
上に記した万能ワクチンの物語はフィクションですけど、どうなんでしょう?例えば今回のコロナウィルスの件。なんらかの疾患を抱えている高齢者は不安ですけど、もしあなたがまだ若いのに非正規雇用で生活状態も苦しい、貧困に喘いでいる、年金をもらっている高齢者を恨んでいる、高齢者優遇の社会体制が許せない、と感じているとしたらどうでしょう。
高い社会保険料や希望のない年金を払うことで多くの高齢者が生存することは好ましいことでしょうか。自分の生活状態は貧困から抜け出すことが困難だとしている人は矛盾を感じているのではないでしょうか。ここで一人ひとりの価値観が出てくるわけです。自分はどのような選択肢、社会的責任を果たしていくのか?
強者は弱者を助けるべきなのか? 自分勝手に生きるべきなのか? 自分が犠牲になっても人間という尊厳を保ち続けるために自己犠牲を強いるべきなのか? 民主主義もヒューマニズムも虚構と割り切って自分と自分が大切にしている家族だけを守ってサバイバルするべきなのでしょうか? 一人の人間としてどのような選択肢を選んでいくのか?
東京オリンピックは予定通り開催されるべきなのでしょうか? 開催してもらはないと困るという人は多いでしょう、経済的効果をあてにしてここまで投資してきたのですから。でも十分な情報も準備期間もない選手たちはどうなんでしょう。そんな選手たちのことまでかまっていられない、とにかく開催してもらえれば投資した分を取り戻せる、と必死ですか?
オリンピック開催なんだから世界中から観戦しに来い、それで経済効果も面目も保たれる、後のことはその時に考えれば良いと考えていますか? 日本人なんだから世界で何が起ころうが関係ないと感じていませんか? 社会的責任は日本社会だけで果たせば良いものでしょうか? あなたの選択肢はどう行動することですか?
民主主義やヒューマニズムが生物的弱者を救ってきました。昔であれば死んでいたであろう多くの生物的に健康でない人は仕方のないことではあるけれど死んでいたのです。人間の寿命なんて50歳生きていれば良い方でしたから昔の社会だったら私はとっくに死んでいるはず。村上龍著「愛と幻想のファシズム」という小説の中に出てくる強者の定義、以下
- 子供の頃に殺されずに済んだという運
- 病気に打ち勝つからだ
- 殺し合いに生き残る力
この世の中には、強い奴と弱い奴がいます、フィールドに行くと、フィールドというのは猟場のことですが、フィールドに行くとよく分かります、弱い種は絶滅するか、弱い種なりの生き方をしています、だめな奴が死んで、優秀で強い奴が生き残って子孫を残して行きます、そんな当たり前のことをちゃんとやっていないのは、人間だけです 。
人間は農耕を始めてから軟弱になった。奴隷になることを求めた弱者がのうのうと権利を主張している。本来自然に淘汰されるべき者たちまで面倒を見るだけの余裕は、もはや世界にはない(愛と幻想のファシズム参照)
社会はどんどんプリミティブな狩猟採集社会へと回帰している気がします。強い物(テクノ人間至上主義)だけが自分自身をアップグレードし始め、弱い物は無能力者階級へと脱落していく。無能力者階級、怖いですよねぇ、もう仕事が与えられない状況ですから・・・ 村上龍著「愛と幻想のファシズム」、お薦めです。
我々人類は、産業革命が起こり馬車から自動車へと移動手段の技術的進歩を成し遂げたとき、馬をアップグレードさせませんでした。必要なくなったからです。AI(人工知能)が普及して様々なフィールドで技術的進歩を成し遂げたとき、我々人類は、無能力者をアップグレードさせるでしょうか? 自助努力、適者生存がキーワードになってきます。
我々人類は、産業革命が起こり馬車から自動車へと移動手段の技術的進歩を成し遂げたとき、馬をアップグレードさせませんでした。必要なくなったからです。AI(人工知能)が普及して様々なフィールドで技術的進歩を成し遂げたとき、我々人類は、無能力者をアップグレードさせるでしょうか? 自助努力、適者生存がキーワードになってきます。
でももし自分が高齢者でなんらかの疾患を抱えて生きているとしたら不安でしょう。そして健康だからと言って体内にコロナウィルスを取り込んでも致命傷にはならない健常者の無責任者に苛立ちを覚えるはずです。ウロチョロするんじゃない、ウィルスをばらまくんじゃない、と。
英語プラス@の時代。インテリジェンスな情報を英語でキャッチ。日本語に翻訳されるまで待つのはやめましょう。できるあなたへ、 Knowledge is Power. このパワーの意味するところは何であろうか? それは思うに『異なる環境へ適用する能力』だと思います。
例を挙げるなら、簡単な海外への小旅行から不確定未来のさまざまな社会への対応能力など、それ相応の知識を持っているのといないのとでは、その人の人生の過程において得るであろう結果は、まったく違ったものになります。
当たり前のことですが成人してからの個人はすべて自己責任です。育ってきた環境への不満は、成人してからの人生ではすべて自分次第でどうにでもなります。今の自分の生活環境を嘆く前に自分は努力してきただろうか、問いただしてみるといい!
小旅行の場合。英語で言う Please, Execuse Me, Thank You はなるべくその行く国々の言葉で話したほうが無難である、と言われます。その他に簡単な挨拶から10ぐらいまでの数字の言い方。その国のお金の単位や、その渡航時期の気候など、常識と思われるある程度の情報はその旅行自体を楽しんだり、その個人を守る上で必須。
新しく違う環境での生活を始めるとなった場合はどうでしょう?例えば住み慣れた日本の環境から、経験のない海外での生活となると、情報収集の意味がその行く国々についての知識の習得と言うニュアンスに変わってきます。その国の言葉から文化や生活スタイルに至るまで、勉強するべき範囲は広がるのです。
そして最後にこれから益々社会の変化のスピードが早まる中、どのような社会になっても自分を有利に導くことができるかどうかは、その人の知性に関わってきます。基礎となる知識がなくては、知性というもう一つの意味に近づくことができません。
まず何かを知ることからはじめたらどうでしょうか?無知は無恥につながるが何も知らない自分を知ることのほうが、何かを学ぼうとするためのきっかけになると思います。そのほうが知らないでずっと行ってしまうよりはまし。
自分に何が必要かを知った個人にとって、勉強という言葉は無意味に。サバイバル、といったニュアンスのほうが近いのでしょうか。自分の未来を信じることができるのならば、明日への新しい自分に出会うために今日、努力すべき。やるべきことはたくさんあります!!大前研一氏も言っています、
「自分に投資する!!自分に投資して付加価値を高め、どんな状況になっても生きていけるだけのスキルを身につける。その時の必要条件は知的に怠惰でないということ。知りたいと思ったことは調べ、経験したいと思ったことは経験し、行ってみたいと思った所には行かなければならない。」、と。